昭和47年12月01日 朝の御理解
御理解 第26節
「信心の連れはいらぬ。ひとり信心せよ、信心に連れがいれば、死ぬるにも連れがいろうが。みな、逃げておるぞ。日に日に生きるがしんじんなり。
大変難しいんですね、信心に連れはいらん、一人信心せよというところまではまぁ分るですけれどもね。信心に連れがいれば、死ぬるにも連れがいろうがと言うとが分かりませんね。非常に難しい、これはどう言う様な事をいうたもんかね、よう無理心中なんかをする人が、やはりあのう何か自分で一人で死んだらばからしかごたる気がするのじゃないでしょうかね、あれはやはり。人間と言うのはなんかだいたいそう言う様な、根性と言うか心を持っておるのじゃないでしょうか。
昔あのう闇商売というのがはやりまいたよね。いやぁ昔はもうその闇商売によらなければ、商売も出来ませんでしたし。また闇のものを買わなければ立ち行きませんでしたからね。終戦直後のころ、私共随分その闇商売さして頂いたんですけれども、これはあのうなんちゅうですかね、闇で一つ上がりますと芋ずる式にずうぅっとあがっていくんですね。自分だけが例えば罰っされるのはばからしい。私だけじゃありませんあれもですよと、あれもしとりますよと。
私だけじゃない、とそげんしたら自分の罪が軽うばしなるようにですね。まぁ私はそれは私の闇商売させて頂いて随分引っ掛かりもしましたけれども。もう私はほかにゃ絶対類を及ぼしませんでした。もうこりゃ本当にそうです、もうそりゃ沖縄送りになるかも知れんちゅうな事もありました。あの支那人との取引なんかしとりますと、あのう学校時代なんかにも確か出て来ると思うんですけども。私が繊維ものを扱っておるときに、何かあのう場合なんかはもう、でいごでもするならもう次から次とでした。実際。
けれどもですね。あのうおかげを頂いてもうそれは本当におかげを頂いてですね。いわばたまがる様なおかげになっておりましたですね。あのう和賀心時代の中には話しておりますが、あのうガーゼのたおるなんかがあのう引っ掛った時の話を確かしっとたと思うんですけれども。もうとうとう結局は検事局送りになりましてね。だから検事局に。それでそれがちょうど久留米の串原の大祭の日でもありましたし、それからまぁなんか知らんけれども、はぁ神様の御都合の中にあるんだなぁと。いつもこう思いよるですね。
それをあの中にお話してあります、あのう大阪に仕入れに行って帰りに引っ掛かってそれであのう門司の警察に降ろされて、そして一年後にあのうそれが全部帰って来る、いやむしろ警察の方から頼んで、こりゃ引き取ってくれと言われるような、おかげを頂いておる。しかももう一年前に引っ掛かった時の10倍にもなっていたんです。そんな話が出ておるでしょ。だからどこで買うて誰から手入れて、こうこういうとったらもうずうっとそりゃあのうでしょうけれども。
私はそれを言いませんでした。検事局に呼ばれた時もそうでした。結局はだいたい検事局に送りいって送られたて、あのう書類が送られたらもう絶対あれはあのう、罰金が払わにゃならんのですけれども、それもぜんぜん何にもないなりにお終いになるほどしのおかげを頂いとりますですね。この辺のところにですね。一人信心せよとかあ、のう死ぬるにも連れがいろうgと言った様な、例えばそのう根性と言う様なものが、私共の心の中にあってはいっけません。
自分が苦労するなら人も苦労させにゃばからしかの様な気がする。そういうところをです私が受けて立つという信心にならせて頂くところから、それはもう夢にも思わない思いを掛けない程しのおかげになってくるんですよ。いわゆる何事にも信心になれよと仰る、それなんです。ところが私共の心の中にゃです自分一人が例えば警察に引っ張られたっちゃばからしいけんで、隣の人もですよあの人もですよというて、芋ずる式にずらぁっと引っ張られてしまう。
そういう性根がお互い人間の心の中にはあるようです。自分だけではばからしかとね。死ぬるにも連れがいろうがと言った様なのはそう言う事、ぎりぎりのなら問題になるといわゆる、死ぬる時にいわば外の者まで殺して一緒にしのう、死のうとこの道ずれにしていこうとするような根性が人間の心の底の底にあるのです。だからそういう心が神様の機感にかなわぬ、心にかなわぬ。皆逃げておる。これは誰でも逃げますよね、死ぬときに連れにどんされるならもうそれこそ逃げます。
言うならばなら例えばいまですね、私が闇で引っ掛かってその引っ掛かった事を、あれもですこれもですと言われる方は逃げておる。もう出来るだけ逃げようとすると、だから逃げとるとばって追って一緒に道連れにする事はない。そういう心をです私共の信心そして心の中から取払わせて頂く事によって、そこにはねもう計算ずく理屈ずくではないおかげが頂かれるです。信心の御教えを行ずる事によると。言うならば福岡初代が御信心のいわば焦点とされたと言う、馬鹿とあほうで道を開けと言うのがそれです。
自分自身がばかであほうで道を開かせてもらうと言うのは、それこそ言うならば負けるが勝ちと言うおかげになって来るです。教えを本当にあのう守ると行ずると言う事はそれは素晴らしい事です。計算ずくで生まれて来るおかげじゃないです。私があのう一件書類があのう進駐軍の何が市役所、あのうあすこは県庁ですかね。県庁の近所にありましたよ、あすこの時なんかはもう本当にどうなるだろうかと思う様な事でしたけれども。それをお取次ぎ頂いてお願いをさして頂きましたら。
とにかく私が呼ばれた日に行ったんですよ、ところがですねその書類が全然私の後の書類だけが無くなっとるとですからね。これにゃ私も驚きましたよ。だから仕方がないからまたその用があったら呼びます。もうそれっきりでした。その生類だけが全部なくなってるんです。紛失したと。今から考えるとみますとね。本当にそのうおかげと言うのはねただ5と5と足せば10になると言った様なおかげだったら、もう通常的なおかげですよね。お願いした事がお願い通りのおかげを頂いたと言うのはね大した事ないです。
けれどもねお願い以上と言うか夢にも思わないおかげと言うのはね、どういう信心させて頂いたら良いかと言うとです、今申します様に本当に馬鹿とあほうになることです。例えばここに死ぬるにも連れがいろうがと仰るような根性をです、私共の心から取りさる事です。それはいかにも自分が一人がばからしいごたる、けれどもそこが馬鹿とあほうになる事だ。神様にお願いをさして頂いてお願い通りのおかげを頂く時にゃね、本当にそれはいわゆる警戒が必要うな時、用心せなきゃいけない時。
ところが願っても願っても右と願へば左、左と願えば右と言った様な時です。もういよいよ馬鹿と阿呆にならなければ出来こっちゃないです。もう本当に先生もお願いしてもです。はぁ降るともおかげ照ともおかげと自分の思う様になると思うと、思う様にならん事のおかげてんなんてん、いうて胡麻化しなさる様に言う人があるんですけれどね。実は本当は降る事もおかげなら照る事もおかげ、願う事が成就する事もおかげ、願うてそれが反対になって行く事もおかげである事を、次のおかげを頂かなければ分らないです。
いわゆる馬鹿とあほうに本気になれきってしまわなければ分からないです。そこにはですそれこそ夢にも思わなかった様なおかげというおかげが展開してくるです。合楽のおかげなんか全部そうです。出来事じゃないですいわゆる5十5と足せば10になると言うになくてから、5、5、25と言った様な計算でおかげが生まれて来る様な感じが致しますね。いうならば5十5と足せば10にしかならんのですけれども、5と5と足して50にも100にもいうならば、おかげが現れてくると言うのがお道の信心。
それにはどうしてもです、死ぬるにも連れがいろうがと言った様な根性をまず捨てなければいけませんです。人間の心の中に神の神の機関に叶わぬ心ありです。誰がこんな悪い事したか、あれもしましたこれもしました、小学校ん時なんかようね、先生に怒られると、自分一人怒られるといかんもんじゃけん、誰もしたかれもしたというてから、と言うな事があるでしょうが。あぁいう心がお互いの心の中にあるんです、それけんちゅてからそげん何人もしとらずにおろ怒られるかと思えば、皆んな一様に怒られんならん。
だからそこを私し一人ばっとこう受け止めれる様な心が馬鹿と阿呆になる心です。あれもしとるこれもしとると言われる事は、言われる方としてはいわゆる皆逃げておるぞと言うのはその事です。巻き添いを食いたくない訳です皆んなが。信心に連れはいらん大体これはもう只だからそういう意味のその内容から言うと、非常にこれも難しい事ですけれどもです。只それを手前の所でいうなら別の事になりましょうかね。明日の朝朝の御祈念にお参りしましょうや。ならお参りしましょう。お互いまぁ起こし合って参る。
ところが今日はちょと参るめというて、そんなら私もまいるめちゅってから、これも信心にはそれ連れはいらんと言う、これは手前の意味ですけれどもそういういわば同志なげきちゅうてね、あの人が参りなさりゃ参るばって、その人が参りなさらんならそんならまた参ろっち。そういう信心ではいよいよつまらないと言う事です。お参りしようと思うたら誰が参らんでも、いや誰が後ろから引っ張る様な事をしても言うても、それを一途に貫くと言う事が、私は信心に連れはいらんと言う事でもあると思うですね。
段々難しくなってきて、一人信心せよ信心には連れがいれば、死ぬるにも連れがいろうがと言うのは只今私が申しましたような、お互いに心の中に、どしなげきをする心が、不幸な事でも自分一人じゃ馬鹿らしか様な気がしてから、さぁ隣近所までそれに巻き込む。ここにおられん様な心の状態がある、それではおかげを頂けん。そこんところをですなら私が闇商売した時のあのう話を聞いて下さると一番わかる様に、それこそ夢にも思わんようなおかげに展開してきとる。
もう神様のこういう働きというものは、そりゃもうすさまじいです。人間の心の状態がほんとに馬鹿と阿呆になり得た時の、あのう神様の働きというものは。その凄まじいまでの働きに触れなければ、人がほぅうっていうごたるおかげになって来んです。ただお願いをした事がおかげを頂いた。じゃおかげを頂かなかった。と言う程度のものじゃなくてですね。それこそ夢にも思わんようなおかげを頂くためにです、信心には連れはいらんと言う信心。
自分がおかげ頂ききらんと人までおかげ頂かせまいとする様なです、さもしい根性ではおかげになりませんですね。最後にここではっきり教えて、日に日に生きるが信心なりと教えておられる。もかげは難しいですね、日に日に生きることが信心なのだ。誰でも生きております。だからそれが信心なのかとそういう意味じゃない。日に日に生きると言う事は日に日に私が新たに誕生すると言う事だ。新たな私が生まれると、言うならば過去を忘れると言う事。
今日を生かすと言う事、明日を楽しむと言う事、日に日に生きるが信心ですからもう今日の私というものはです、もう一日を締めくくった時にです、もうそれは過去のもの言うならば自分は葬り去ったものでなからなければならないと言う事です。だからここのところ日に日に生きるが信心と言うのは、日に日に死ぬるのが信心と言う事も言える訳です。過去の事は言わない、あるのは今日只今があるだけなんだ。昨日の事は言わない、昨日の事を言うもうとても何年前の事まで思いでぇしてから、悔やむ人がありましょうが。
言うならば何年前の亡者に取りつかれとるようなもんですよそれは。過去の事を悔やんだところでね、おかげになるもんじゃない。過去の事が例えばそれが損になる様な事であっても、馬鹿にされる様な事であっても、もうそれはスキットそれこそ流れ川、三尺と言いますね。どんどんどんどん流れとるところであったら、ここで汚いものを洗ってももうそれが三尺水が下に流れたら、またここでなら綺麗なもん洗っても言いと言う。流れ川三尺とようなもう流しに流して行かにゃいけん。
過去というものはもういわゆるむなしゅうしていく。葬って行くのです。そして今日只今の所をなぞって行くのです。そこから明日の楽しみが生まれて来るんです。いやぁ今日はこんな修行をさして頂いたが、明日はどげなおかげを受けられるじゃろうか、という言える程しの一つ修行したいですね。あぁどうしてこげんこげん苦労せなならんじゃろうかと言った様なものからは、明日楽しいものは生まれて参りません。
ここ二、三日私が皆さん人を責めると言う事をしますまいや。もう今月今日を一日を一つ人を責める。どうしておんたぁそげな事するのって、あげん頼んどったつにどうしてしてくれんのってんなんてん、どうしてと言うて自分人を責める事だけは、一つ神様に嫌われる心だから、ひとつこれを改めて行こうじゃないかと申しておりますね。どうですか皆さん最近頑張りよりますか、もう私幾人もの方から本当に人を責めないと言う事が、こんなに素晴らしい事だと言う事か今日幾らも聞きました。
いわゆる馬鹿と阿呆になる事です。本当に人を責める様な心がです、おかげの受け取れない心であり、神様に嫌われる心であるとわかったらです、本気でその責める心を取り除く事が信心です。それが日に日に生きるが信心とはそういう事なんです。日に日に神様の御機関にかなわない心に取り組んで、それを自分から葬り去って行こうとする心。そういいうものを自分の心から無くしていこうと言う精進です。それが日に日に生きるが信心と言う事それなんです。
昨日、一昨日の事でしょう、昨日のお届けです。桜井先生まぁ福岡のあのう飛行場の仕事をなさっておられる。ところがそのう請け負われた仕事の事よりも、条件が悪かったりもうこげなことならまちっと高く貰わにゃいかんとか、こりゃもう少し条件もようして貰わにゃいけんと言う様な事ばっかりだった。けれどもその日頂いておる、人を責めたりしてはならないと言う事がです。その時分に請け合わせたその人に責めて、そういうこりゃあんた約束が違うじゃないかと言った様なものじゃなくて。
もうそれこそ馬鹿と阿呆ななって成程1時間も2時間も、それだけの事で余分に仕事もしなければならんのだけれども、その事を一言も言うまいと決心したと。ですからもう日の内1時間か2時間かは余分に働かなければならんから、いうなら馬鹿らしい事ですから、けどもその馬鹿らしいところを、そのまま受ける心が馬鹿と阿呆になる心でしょうもんね。しかも今日はもうもうここの所に焦点を置いて、人を責めてはならない、とにかくこれだけ余分に仕事さして頂くと言う事が有り難いと言う様な気持ちで。
まぁ心の中も思わんじゃない、いまのこそ言っとられるこりゃ請け負うたのとはだいぶん条件が違う。こげな事ならま少し高く貰わにゃいけん。時間もこんな事じゃったら何時間も余計にかかる。だからそれに余分に貰わにゃならん。だから言えばなるほどそうのというてなら金も頂くかも知れませんね。その条件を聞いてくれるかも知れませんよね。ところがです例えばならその朝の人を責めると言う事を、すまいと心に一生懸命誓っておりますから、抑え抑え金光様金光様へそのことをして来られた。
ところが同じ一緒にいる働いておられる職人さんがですね、えらいあんたがと遅うなったな私がちっとばかり加勢しゅちから、加勢してもろうたかから普通の時間に終わったとこういう。もう先生終わったとたんでした停電になったのが、もう本当に神様のお働きの素晴らしさにね、もうねそれで例えばんなら儲かったとかどうかと言う事じゃないけれどもです。そういう神様の働きの中にあったと言う事がです。もうあの日空、飛行場の全部が停電なってしもうた。
ほんな終わった途端じゃったげな。こういう素晴らしい働きの中にある事をです、もし私がなら受け合わせてもろうとるところへ持って行って、来げな事じゃどうじゃない成程それはそれだけの事をしてもろうたかも知れんっけれども、やっぱり一番始め請け負うたと同じような事で、それは終わって行くです。しかも神様の働きをこれに感じられると言う事が、それが力なんですからねお道の信心は。こげも神様の間違いのない働きがあると言う事を信ずると言う事がお道の信心のおかげなんですよ。
おかげを頂くと言う事じゃないです。神様がこげな例えばすさまじい勢いを持って私共を守っておって下さるんだと言う事を、信ずる事がお道の信心です。日に日に生きるが信心と言う事は、ある意味では馬鹿と阿呆になる事と同時に、自分というものをむなしゅうしていく。自分というものを犠牲にしていく。だから明くる日は新たな自分というものが生まれておる。いわゆる心が生き生きと弾んでおる。喜びにあふれておる。こういう間違いのない働きの中に。
私は御用を一日さして頂いたんだとと言う事が分かる。それを分かって行くと言う信心が、私は徳の蓄積だと思う。そういう信心がもうここには100燭光がついとる様に明るい。はぁ本当に愚痴を言わんで良かった、これを相手に責めんでよかった。そこには夢にも思わなかった様なおかげがそこから展開しいきょる訳です。ねこれはささやかな事ですけれども一日の内にです、そういう信心が私は積なされていくと言う事。
素晴らしいですね、日に日に生きるが信心なり。あれは壱岐の教会、末永先生の所が壱岐の教会ですがね、壱岐の教会だったか対馬の方の総代さんであったか。胸の病気で福岡の九大に入院しておられた。そん時同じ同室にやはりこれももう瀕死の重体で、やっぱり胸を患うとる人がひとつに二人っとった。もうその一人の人と言うのは実に温厚な、おとなしいまぁいわゆるまぁ優しい人だった。ところがもう命そのう幾ばくも無いと言った様な状態ですから。非常に信心深い方であった。
自分の信心家のぐるりにお大師様、お不動様、もうあらゆる神様仏様をお祀りして、信心されると言う様な信心深かぁい人であった。同んなじベットがふたつこう並んでおるとへ、もうだからそれこそ仏教のお経をあげて、なまんだぶなまんだぶをもう寝ながらも、いわば生きて拝めば南無阿弥陀仏、寝てから南無阿弥陀仏なまんだぶとこういうておられる。そしてある時その壱岐の総代さんであるという、壱岐か対馬かどっちか失念しました。の方がある時にですね。同んなじこうベットの中で休んでおる。
ほれであなたはえらぁい信心なさるようですが、あなたがもう朝から晩までなまんだぶなまんだぶと言いなさると、もうこっちの方が滅入ってしまってね。もうこちらが死んだ様な気がするとというていわれたと、ところがねこれはもう自分で自分の命は分ると、医者もそうですね。だから結局お迎えを頂かなきゃならない、いわばこの世ではこんなに苦しい事だったけれども、あの世では極楽にいかにゃならんから、もう死ぬる前にもうなまんだぶなまんだぶでその信心を手厚うしておるんだという意味の事を話された。
そこでその壱岐の総代さんが話されたことは、私も実は金光様の御信心をするけれどもです、私は医者が例えばもう、私でもあなたでも同じような状態だけ、だから言うならば医者がもうめ離しておるのか分からんけれどもです、私はねもう例えば死ぬるが死ぬるまで神様におすがりして、助けて頂こうと思うと、お道の信心の中にですね、御教えの中に日に日に生きるが信心なりという御教えがありますよ。このうち例えば生きておると言う事をお礼を申し上げる。そして願うのだ。
もうその話を聞かれてですね、もうそれこそベットの上に起き直して、もうそれこそ目を輝かしてその話を聞かれたと言う事です。なんという素晴らしい御教えですかと、日に日に生きるが信心、なんという素晴らしい力強い御教えですかと。そして例えば死んでもです、死ぬその間際まで願うと言う事は、なんと言う心強い信心ですかと。私に金光様の話をして下さいと言うて、金光様の話を聞かれた。大変な感激で喜ばれた。その晩の事だそうです。
夜中にちょっと目が覚めたところが、もう言うならばもう這いも立ても出来んぐらいの重体のそのう、そこに寝てござる人がねおんなさらんそうです。夜中に。だからもうびっくりしましてね隣の人も、それからまぁそれこそまぁよろよろしながら、そのあっちこっちを見られるけどおられない。大変もう月の照るその月の夜のその晩だったそうです。あのう九大の何と言うこのう花畑があるんですね。花畑の中になんかこう黒いものがこううごめいとる感じですからね。
そのうっじっと行ってみたところがです、そのその病院い一緒におるその病室の人がですね。花畑の地べたに座って一生懸命、生神金光大神様、天地金乃神様ちと拝みよったげな。それから翌日はどうでも自分、あのうそのう金光様の教会にお参りしたいと言って、だいたい出られないのをもうそれこそ這う様にして、その時の事を福岡のいう識者がその事を言うておられますが。表まで表の上り口の所まで来てパターンと倒れとられたげな。もう死ぬる思いで教会を尋ねられた。
そして吉木先生のお取次ぎを頂て、いわゆる天任せよ地に縋れよと言う御理解を頂かれた。もう毎晩毎晩いわゆるよなよな花畑に出てから、大地に座って生神金光大神天地金乃神を唱えられて、それからだんだんだんだんおかげを頂かれてね、そしてとうとう全快のおかげを頂かれた二人とも。山口の「あかし」と言う先生がおられます。福岡じゃよくお会いしとりましたが、もうそりゃ実意丁寧の塊のような方でした。
お道の教師になられた。今までもそこの明石先生のとこの御大祭と言うと、そのう壱岐の総代さんが必ず、鯛と鰤だけはもって、いわゆる信心友達その人に導かれた。持ってそのお参りをされるというな、この信心の友情が今でも続いておると言う話を、もうこりゃ20年前の話ですよ、に聞いた事があります。例えば今日のなら日に日に生きるが信心。それにねなんと言う生き生きとした、その信心だろうかと感じられたわけです。もう悔やむと言う事がない。
どういうもう明日は死ぬるかも知れん、と言う程の重体であってもです、もう今日生きておる今あなたが生きておる、息をしておると言うが有り難いじゃないかと教えられるのです。日に日に生きると言う事はね。こんにち生おかげを頂いとる、御生かしのおかげを頂いておる目が覚めた。あぁまた今日も仕事せにゃならんじゃなくて、目が覚めた。今日も又御用にお使い回し頂きたいと言う願いが、日に日に生きるが信心です。日に日に生きるが信心。
金光様の信心はそういう信心なんです。あの世をたのむと言うのじゃない。この世で本当のおかげを頂き、この世で本当の極楽を頂いておらなければ、あの世に極楽がある筈はない。この世で極楽を頂いておってあの世につながるのですから、この世で真実これが極楽の世界だろうかと言う様な、有り難い勿体無い極楽の世界に住まわせて頂くためには、お互いの心が弾んでこにゃいかん。生き生きとしてこにゃいかん。
あんた明日お参りしましょうかといんにゃ御無礼しょう。なら私も御無礼しょうそげな信心じゃ詰まらんと言う事。同時に信心にゃ連れはいらん一人信心せよと言う事。信心に連れがいれば死ぬるにも連れがいろうがと言う様なです。そういう私共は神様の機関にかなわない根性が私共の心の底にはある。自分だけ罪になったちゃ馬鹿らしいけん。あれも一緒に又は自分だけ死んでは馬鹿らしいけん。あれも苦労して死のういう無理心中をすると言った様な心の状態でも。
人間の心の中にはあるんです厳密に言うたら。だからそういう心を自分の心から取り外すときにです、いわゆる本気で馬鹿と阿呆にならなければ出来る事じゃないて。そのなら馬鹿と阿呆になると言う事がです、なら例えば人を責める様な心がってはおかげにならん。責める様な心は神様は嫌いなさる心だからと、なら桜井先生の場合なんかは責めないと言うね、今日はここんところに焦点を置いてと、仕事の中からですね。
昨日お礼お届けしておられるような、それこそこういうすさまじい神様に働きの中にあるんだと言う事を、体験さして頂けれる様なおかげがそこに生れておる。だから5と5と足せば10になると言うような理屈ではなくてです。それこそ5と5と足してですね。50にも100にもなるほどしのおかげを受けられるのがお道の信心なんです。それには一つ私共が信心をです、私共人間。
こりゃ人間だからこん位の事は当たり前と言った様な根性を捨ててですね、和賀心がいよいよ神に向こうて行く信心。いよいよ神様の心にかなう信心、いよいよ神様に好かれる心の状態をです、持ち続けさして頂いて、神様に嫌われる様な心を、そこに発見したならばです。それを本気で改まって行くと言う信心にならせて頂く。そういう生き生きとた信心を、今日は日に日に生きるが信心と言う風に聞いて頂きましたですね。
どうぞ。